ウィーン留学時代の想い出


Wiener Staatsoper(国立歌劇場)大晦日恒例のこうもり そして新年、充実の日々

ザルツブルク、ザルツカンマーグートの旅から帰って、すっかり我が町となったウィーンで1980年最後の日々を過ごしていました。思い返せば夏にこちらへ来て以来いろいろな体験をしてなんだかとても長かったような気がします。いつの間にかこちらの生活のペースが当たり前になっていました。

毎週のレッスンに通いながら見る街の風景はすっかりおなじみになりました。リンクの下を通る地下鉄U2でカールスプラッツからショッテントアまで行き、そこからシュトラーセンバーン38番グリンツィング行きに乗ってパラディスガッセで降ります。市内の交通は街のタバック(煙草の他、新聞雑誌、切手、航空書簡などを売っている店)で売っている共通の回数券で乗りました。車内放送の鼻へ掛かったウィーン訛りの声は今もよく覚えています。当時、街の建物にはまだあちこち戦争の傷跡が残っていました。日本では空襲で焼けてしまったため、傷跡は戦後の復旧、高度成長のおかげですっかり姿を消してしまいましたが、市街戦の激しかったウィーンの石でできた建物には砲弾の跡や弾痕がそのままになっている所がまだまだありました。

戦争の跡と言えば、街の中心にあるシュテファンスドームも、中に爆撃で崩壊したときの写真が展示されていました。また国立歌劇場も無惨に破壊されました。しかしウィーンの人たちは、戦後まずこれら街の象徴的な建物を元のように直したのです。
12月29日、Neu Jahr Konzert(ニューイヤーコンサート)のチケットを買うためにまだ暗い朝の5時にムジークフェラインへ整理番号をもらいに行きました。こちらではめぼしい演奏会やオペラの時には買い手側で自主的に整理番号を出し、決められた時間に点呼を受けて最終的に売り出しの数時間前からは番号順に並んで買うというシステムができています。私がこの日貰った番号は173番、9時からの売り出しですが7時半に今度は文子が行って並び、ようやく11時過ぎに立ち席2枚を手に入れました。

30日は今年最後のレッスンにブラベッツ先生のお宅へ出かけました。旅行前のレッスンではあまりうまく弾けず、旅行中もときどき思い出して気が重かったのが、思い切り休暇で気分転換したおかげで帰宅後は練習もはかどり、この日のレッスンはうまく行ったようです。気分良く新年が迎えられると手紙に書いてあります。
31日、朝5時にオペラ劇場へ大晦日恒例ヨハン・シュトラウスのこうもりのチケットを買うために整理番号をもらいに行きました。前日の午後から寝椅子や毛布、トランプなどを持ち込んで並ぶ連中がいて驚きましたが、我々は朝から1時間くらい待って番号を貰いました。

オペラを見に行くときはいつも我々は二人で行きました。こちらでは男女二人というのが普通で、一人とか男二人だけというのはあまり見かけません。服装もタキシードなどの正装が多く、最低スーツにネクタイはないと恥ずかしい感じです。よく旅行者や学生が普段着のままでリュックなどを背負って来ていたりすると、周りの目が少なからず軽蔑したような雰囲気がありました。実際、昔のままのきらびやかな社交の場にふさわしい服装は、そこに来て雰囲気を楽しむ人たちにとっては重要且つ当然のマナーでした。開演前や休憩時間にはゴブランザールを二人腕を組んで流れるプールのごとく歩いていて、そこにはいろいろな香水の匂いが薫り、お互いにこやかに、しかし実は結構しっかり他のカップルのドレスの品定めをしたりしていました。我々天井桟敷組が休憩時間に飲み物などを買うスタンドは、主にビールかワイン、カナッペのたぐいはチーズかサラミなどですが、ゴブランザールやロジェなどの良い席のある階のスタンドではもっぱらシャンペン、カナッペに乗っているものもキャビアやスモークサーモンなどの高級品でした。

大晦日のこうもりとなるとことのほか豪華な雰囲気が漂い、舞台の上と客席が一つのように感じられるほどです。でも、実際オペレッタの中の話はここの文化そのものであり、境目がなくても当然なのです。我々も天井桟敷の立ち見ではありましたが、その雰囲気は大いに楽しみました。

この日のキャストはことのほかすばらしかったです。グシュウルバウアー指揮でアデーレがグルベローヴァ、アイゼンシュタインがヴァイクル、ロザリンデがルチア・ポップ、ファルケがワルター・ベリー、オルロフスキーがファスベンダーなど名歌手、名優が揃いました。我々にとっては忘れがたいこの記念すべき1980年12月31日のこうもりが、なんとDVDで出たのです!最近偶然見つけ手に入れました。演奏と演技のすばらしさは言うに及ばず、私にはあの日の感動を鮮明に思い出させてくれる貴重な記録です。
こうもりのあと、シュテファンスドーム前で新年の0時を迎えました。シャンペンを抜き、若者たちが爆竹を鳴らし大騒ぎで迎える新年、日本の静かな除夜の鐘とはずいぶん違った雰囲気に逃げるように家に帰ってきました。真夜中に二人だけで新年を祝ってシャンペンを抜き、カナッペを食べました。

元旦の朝はニューイヤーコンサートに出かけ、今なら日本でも生放送され家のテレビでだれでも楽しむことができるようになりましたが、満員電車のような立ち見席で大きな人たちの肩越しに背伸びして見たのは貴重な体験だったと思います。

夜には家内の祖母が送ってくれたお赤飯に煮物を作って和風にお祝いをし、大晦日と元旦をのんびり(二日続きの立ち見であまり楽なのんびりではなかったけれど)したので2日からは仕事始め、二人とも張り切って練習をすると手紙には書いてあります。15日に文子はクラスアーベントがあり、頑張らねばなりません。私も年内最後のレッスンで少し上向きになったところだったので張り切っていたようです。

我々が日々のことをあまりに事細かに手紙で知らせていたので、たまに手紙が滞ると両親はとても心配してくれたようです。この頃は昼間はひたすら練習、合間には買い物や洗濯、掃除など、夜はコンサートに行ったりで手紙は夜中しか書けず、私の実家ばかりでなく、家内の実家や義妹のところやオケにもかなりの頻度で書いていたので時には間があくこともあるということを言い訳したりしています。

正月休みのせいか、日本からの手紙は元旦のものが5日に着きました。普段でも3〜4日かかるので、今のようにメールですぐに連絡できる便利さとはずいぶん違いました。もちろん電話をすれば済むことですが、お金も惜しかったし我々はあえてそれをせず(2年間で電話をしたのは帰る直前に1回きりでした)、ひたすら手紙を書きました。実家の正月の様子や、伊豆へ旅行をした等という便りを何度も繰り返し読んでは両親のこと、ふるさとのことを思っていました。
ザルツブルクの旅行以来、文子はお菓子や料理に凝って本の中から次々に作ってみたいものを見つけて挑戦していました。おかげで私はおいしい料理、すてきなお菓子ですっかりリッチな気分を味わっており、貧しい留学生の生活と言うには当たらない生活だったと思います。でも節約し無駄遣いはしないという習慣に変わりはなく、ナッシュマルクトの野菜と、この頃知って行き始めた中央市場の肉を二人で両手いっぱいに買い込んで、そこらのスーパーで買うよりはるかに安く賄っていました。うちの冷蔵庫は壊れていて何でも凍ってしまうのですが、それが却って都合良く、キロ単位で買い込んだ肉は1回分に切り分けて冷凍にしました。
クレープにクリームチーズを巻いたトプフェンパラチンケン。焼きたての熱々は寒い日のおやつには最高です。
←中身のたっぷり入ったミートパイ。
忙しくても食べることには二人とも熱心でした。この頃から私もよく料理をするようになって、家内とは作っている途中で引き継ぐこともできるようになりました。朝型の私は午前中から練習のペースが上がり、夕方頃にはもうくたびれてしまいます。家内は夜型で、少しとっかかりが遅い代わりに夜はめいっぱい練習します。そこで自然と夕食は待ちきれない私が作り始め、8時に練習を終えた家内が途中から引き継ぐというペースになりました。
もっともこんな手の込んだ料理はやっぱり家内にしか作れません。私のはもっぱら庶民的な家庭料理です。
外はとても寒く、手紙によれば0度を超せば今日はだいぶ暖かいね、と言うくらい、8日の手紙にはマイナス11度と書いてあります。ブラベッツ先生のお宅のある19区はだいぶ郊外なので雪景色も美しく、先生にいただいた鞄に楽譜を入れ、暖かい帽子を被って通っていました。レッスンは厳しく、それでも調子が出てくると先生も興奮気味に、時には楽器を取って弾いてくださるのですが、ことにその音色を生み出すボウイングは大きな課題でした。
13日、明後日にクラスアーベントを控えて最後のレッスンに出かけた文子は緊張のせいか少し行き詰まっていました。ムラツェック先生からはあまり多くは言われなかったようですが、初めて先生のところに行って感じた音楽の感動を自分の演奏に感じられないということのようでした。だんだんいろいろなことがわかってきて、それだけに要求も高くなり、すぐに満足できないという、今から思えば確かに成長の過程だったわけですが、そのときはどうにも辛い大きな壁に突き当たった気がしていたのです。
完全に凍ったStadtpark(市立公園)の池。いつの季節にも、どんなに辛くても、寂しくても、いつもこの公園に来ると気持ちが和らぎました。買い物の時ほんのちょっと寄り道ができることがどんなにありがたかったことでしょう。
15日、ついに文子のクラスアーベントの日が来ました。数日来悩んだ末に何か気分が吹っ切れて、努力してきたことが実ったすばらしい演奏ができました。私も毎日必ず聴いていたので本当にうれしかったんです。今この日の手紙を読んでいてもなんだか涙が出そうになります。文子にとってはウィーンへ来て初めて人前で弾いた感激は決して忘れられないでしょう。
1月末頃の手紙を読むと、日本が懐かしく、特に両親や兄弟、仲間からの手紙がうれしかったことなどが書かれています。また日本の食事が時に恋しく、佃煮や昆布などを送って欲しいとか、かなうわけもないのにトロが食べたいと叫んだりなどという様子が書かれています。なにしろ海がない国にいるわけですから、日本で暮らしていた頃ごく当たり前だった海の幸がない暮らしの辛さがそろそろ身にしみている様子が窺えます。反面、日の経つ速さに驚き、滞在期間を初めの計画通り1年とするかもう1年延ばすかで悩み始めています。また勉強については、今まで難しいことは避けてきたけれどそれでは進展がない、難しいことに努力して向かってこそ本当の勉強だしよろこびもあるんだということを書いています。両親にさらに負担をかけることを申し訳なく思いつつも、仕事に追われることなくいくらでも勉強できる環境を延長したい気持ちが強まっていることを告白しています。
2月に入り、いよいよ期間延長についてオケにも相談したり、かなり気持ちが動いている様子です。この頃ブラベッツ先生のレッスンの他にアカデミーのクラリネットの学生で芸大の先輩だった人とアンサンブルをしていて、ウィーンフィル首席でアカデミー教授のプリンツ先生のレッスンを受けたり、文子と同じムラツェック先生のクラスの先輩でやはり芸大の先輩だった人とのデュオを始めたりして、とても張り切っていたのです。さらに日本大使館の主催するコンサートでブラームスザール(ムジークフェラインの小ホール)でシューベルトの五重奏曲“ます”を弾く話が転がり込んだり…。ブラベッツ先生のレッスンはと言えばピアノ付きでのレッスンをしていただけることになり、文子も一つの曲が終わっても同時に勉強している曲がいくつもあり、その上チェロとのレパートリーも加わったのでいよいよたいへん、でもいやが上にも充実した毎日の様子が文面から感じられます。

まだまだ寒い日が続き、公園の花壇は花もなく、街の噴水も水が停まって木の蓋が被せてあります。お年寄りは分厚いローデンのコートに帽子を目深に被り少し丸くなった背中をさらに丸くして杖を突きながら歩いています。ウィーンの冬の厳しさ、そして春の訪れを待つ気持ち…でもそれはまだ我々には初めての体験、珍しさが勝っていました。季節をもう一巡りすること、本当に春を待つ気持ちを味わいたい、この思いは勉強を続けたいという尤もな理由とともに留学期間延長を決定したもう一つの理由でした。
すばらしい春の訪れ                                 ウィーン留学時代の想い出index
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