ウィーン留学時代の想い出


最初の日々 1980年8月末から9月始め

写真はホテルヨハンシュトラウス。最上階の赤い屋根のところが泊まった部屋。この窓からの景色が前回の最後に載せた写真。

真夜中にウィーンに着いて、住むことになっていた家からわずか1分ほどのホテルヨハンシュトラウスに泊まれたのは幸運であったけれども、なんと言っても家内のおかげが大きかったと思います。一夜明けてまず家を見に行きました。私たちの前に住んでいた大学の先輩の名前がまだドアのインターホンに付いたままになっていました。管理人のベルを押すと人の良さそうなおばちゃんが出てきて、日本から来た黒川ですと名乗ってから昨日の顛末を話すと、夜中でも何でも来ればよかったのにと暖かく迎えてくれたのがとってもうれしかったです。おばちゃんは終始にこにこと楽しそうに我々の住む部屋を案内して見せてくれました。
我々が住む家はウィーン市の4区、タウプシュトゥンメンガッセ4の21a(Taubstummengasse 4/21a 1040 Wien Oesterreich)にあり、あのころすでに80年くらい経った古い建物でした。市の中心から近く、国立オペラ、ムジークフェライン、コンツェルトハウスをはじめ、シュテファンスドーム、市立公園、カールス教会、ベルヴェデーレ宮殿などが歩いて行かれる範囲にありました。中でもカールス教会はどこへ行くにもたいていその横を通り、最も親しみのある建物でした。タウプシュトゥンメンガッセは短い通りで片端はホテルヨハンシュトラウスのあるファヴォリーテンシュトラーセに突き当たり、家に近い反対の端はアルゲンティニアシュトラーセに突き当たって、ちょうどそこは日本国大使館でした。たまたま帰国する先輩があって空く家があるという情報をもらってそこを取って置いてもらったのですが、この上なく便利な上に安心して住める環境でした。
入り口のドア

外の扉はインターホンで部屋から鍵が開けられる式のもので、当時の日本のアパートなどではまだあまり見ないものだったと思います。
我が家の建物(Wohnung)

道路にはすべて名前があり、大きな道がシュトラーセ、小さい道がガッセです。住所は道路の名前にドア番号(一戸建てではなく我々の家のようなヴォーヌンクは部屋番号付き)で表します。ドア番号は道路の向かって左が奇数、右が偶数になっています。
日本の家の感覚からすると何でもが大きかったです。ドアを入ったらこの広さ、ドアの取っ手もずいぶん上のほうにありましたね。

上から下がっている灯り、入り口近くにスイッチがあり点けてしばらくすると自動的に消えます。どこのヴォーヌンクにも似たようなのがあり、入り口の鍵のことといい、進んでいるなと感心しました。

我々の部屋は日本の言い方なら3階ですが、第1上階とでも言うのでしょうか、パルテレ(1階)、メッツァニン(あちらの古い建物にあるいわば中2階ですが実際には2階)の上の1.Stockでした。天井が高いのが古い建物の特徴で、すぐ隣の新しいアパートの5階と我々の住む3階が同じ高さでした。玄関を入り螺旋階段を上って部屋のドアまでは共有部分です。

我々の部屋が1.Stockだったおかげで数日後にピアノを借りたとき輸送費が安くなりました。貸しピアノだったのですが、運搬の費用は階によって違います。メッツァニンがあってもなくても1.Stockは同じなので、運んできたおじさんがぶつぶつ言ってました。それにしても日本のピアノ運搬業者はグランドピアノを運ぶのに必ず3人来ますよね?あちらはなんと2人で担いで螺旋階段を上がってきたんです!

部屋は壁が厚く、窓は二重の観音開き、さすがに寒い土地の家だなと思いました。おかげでやがて冬になって気温が下がっても家の温度はほとんど変わりませんでした。
家には家具や食器がついています。おかげで入ったその日から生活には困らずにすみました。大家さんは隣に住む奥さんでおおらかな人でした。食器などの枚数も適当で、メモを見ると小皿とコーヒーカップのソーサが一緒にして数えてあったりして、、、

部屋は大きなリビングと8畳くらいの寝室に小さな台所、玄関の入ったところが結構広かったのでゆったりしていました。リビングは片隅に食事をする小さなテーブルを置き、別のコーナーにソファー、古いたんすと本棚などがあり、数日後には大きなグランドピアノが入りますがそれでもまだまだ歩き回れるくらいの広さでした。シャンデリアが下がっている天井はとても高いので普通にしていると視野に入りません。音がとてもよく響いたので、だんだん話をする声も小さくなりました。

家内は私よりドイツ語がかなりできたばかりでなく、基本的に順応性があったようで、すぐに買い物など上手にしておいしい食事を作ってくれました。おかげで私はやせもせず暮らすことができました。

私はプライベートで師事することになっているブラベッツ先生が休暇でお留守だったのでレッスンはまだ始められず、また家内は国立のアカデミーに入学試験を受けて入らなければならないのにまだピアノもない状態でした。日本から送った船便の荷物もまだ届かないので家の中はがらんとしており、なんとなく不安な日々でした。
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